インデックス まえがき あらすじ


 古びて落ち着いた色彩をたたえる寮の部屋の壁には、大きな鏡が取り付けられている。花びらに似た模様が浮き彫りにされた、チーク材の縁取りを持った姿見。その前に、一人の少女が立っていた。
 少女の肩には、朝のすがすがしい光がほころんでいる。腰まで届くほどのつやのある黒髪が、光を受けて生き生きと輝いている。
 彼女は身を乗り出して前髪を少し直した。ゆっくりと手を胸元に持ってきて、白い制服に映えるチェック柄のリボン・タイの結び目を指先で押さえた。
 と、手を止めて自分の顔つきを確かめる。薄く開いた口から思わず小さな言葉が漏れた。
「……何て情けない顔してるのかしら」
 言葉の通り、彼女の表情は沈んでおり、部屋の中の明るさには似つかわしくない暗い影を落としていた。
 彼女、南都夜々は、いちご舎の同じ部屋に住み同じクラスに通う少女、此花光莉に友情以上の感情を抱いていた。
「……」
 しかし相手の思いは、既に別の女性へと向けられていたのだった。星のように輝く女性、学院中が憧れる美しい上級生へと。
 夜々はうつむいた。――わかりきっていた事なのに。去年、光莉と出会って間もない頃から、こんな筋書きはわかりきっていたのに。
「何やってるんだろ、私」
 つい数日前、泉の前で、涙を流しながらお互いの気持ちを打ち明け合ったあの日、自分の思いの行方は決定的になったはずなのに。
 彼女にはまだ胸にわだかまるものがあるようだった。
「どうして私はここにいるの」
 胸にあてがっていた手をきつく握りしめる。
「……こんな苦しい気持ちになるため?」
 鏡から顔を背ける。答えを求める彼女の頭の中を、昔の記憶がよぎった。
 何年も前の事だ。誰かからアストラエアの丘について聞かされた夜々は、すぐにその場所に興味と憧れを持った。
 中高一貫教育で六年間を過ごす、乙女達の学舎。――そこへ行けば素敵な出会いが必ずあるはず。
 伝統と、先進と、何より慈愛に満ちた校風。――私を待っていてくれるのは、お姉様か、妹か、それとも同級生? 三つの女子校が並んでいるんだもの、絶対に理想の人に出会って、胸をどきどきさせて、恋に落ちるんだわ。そして……。
 夜々は顔を上げて、鏡の中の自分をもう一度見た。ひどくつらそうな表情がそこにはあった。
「もう……、しっかりしろ、夜々。これぐらいの事で!」
 彼女は自分の頬を両手でぺちぺちと叩き、気合いを込めた。
「女の子なんて星の数ほどいるんだから」
 夜々は制服の襟を正しスカートの裾を整え、胸を張った。肩に掛かっていた長い黒髪をさらりと後ろへ流す。
「身だしなみ、よし。髪の手入れ、よし。すべて問題なし!」
 彼女は行進でもするように、胸を反らし大きく手を振ってドアまで歩いた。ノブに手を伸ばして音とともにドアを開く。同時に振り向いて、部屋の奥にある扉へ声をかけた。
「もう行くわよ」
 小さな扉の向こう側にある洗面所の方から、はかなげな声が聞こえてきた。
「待って、夜々ちゃん」
 姿は見えないが、光莉である。夜々は荒っぽく溜め息をついて彼女をとがめた。
「光莉、遅い。すぐに出ないと遅刻しちゃうわよ」
「だぁって、髪が全然まとまらなくて……」
 洗面所の扉が開いて光莉が現れた。今にも泣き出しそうな顔をして、懸命にブラシで髪をなでつけている。
 美しく波打つ髪はきちんと整っていたが、彼女はサイドの毛束を握りしめており、途方に暮れて夜々を見た。
 彼女の上目遣いに胸を揺さぶられながら、夜々はつとめて平静に答える。
「それで大丈夫よ。……かわいいわ」
 光莉は目を見張って夜々を見つめ返した。つい口から出てしまった本音を取り繕って、夜々はベッドの脇に置いてあった荷物を相手に手渡した。
「はい、かばん。ほら、早く行こう」
 光莉が黙ってうなずくのを、夜々はよく見ないで寮の廊下へと出ていった。

「光莉先輩、夜々先ぱぁい!」
 いちご舎からの石畳の道を歩いている二人に向けて、元気な声が遠くから響いてくる。振り返ると、小さな女の子がめいっぱいのスピードで走ってくるところだった。ヘアバンドで押さえた長い髪が風に乗ってふわふわと揺れている。
「おはようございます、先輩方!」
 彼女は、並んで歩いていた夜々と光莉の間に勢いよく割って入った。二人と腕を組んで歩き始める。
 夜々は呆れ顔で、彼女、奥若蕾を見た。
「朝から元気ね」
 ずいぶんなご挨拶に対して、蕾は当たり前のように答える。
「はい、今日は朝練ですからね。朝食もぉ、お代わりしちゃいました」
 照れ笑いをする彼女の表情を、夜々はじっと見た。
 ――女の子は、星の数ほど。
 確かに蕾は、二つ年下ではあるが、人を引きつける何かを持っていた。聖歌隊に彼女が入ってきた時、それだけで音楽室の空気がひときわ明るくなったのを、夜々は憶えている。
 人に対して物怖じしないのも、彼女の魅力の一つなのだろう。物事に白黒をつけずにはいられないが、弱い者への思いやりも忘れない、そういう子だ。
 だが。
 ――あの小さな肩を包み込んで、耳元で愛の言葉でもささやいたら、この子はいったいどんな顔をするんだろう。
 夜々の脳裏に、気の向かないもしもを想像するイメージが、とりとめもなく流れた。
「?」
 先程から真顔で黙って視線を投げかけてくる夜々を、蕾は不思議そうにしばらく見返した。
「……はっ!」
 蕾は、瞬時に血相を変えて鞄を持ち直し、両手で自分の顔をあちこちなで始める。
 一瞬呆気にとられた夜々だったが、すぐに事情を理解した。
「別に、顔には何も付いてないわよ」
「そんなの信じられません!」
 そう言うと蕾はくるりと振り向いて、光莉の袖にすがった。
「光莉先ぱぁい、ひょっとしてご飯粒とかくっついてません?」
 蕾は必死に背伸びをして、光莉へ向かって顔を突き出した。なぜか目を閉じている。
「え? だ、大丈夫だと……思うけど」
 光莉は、涙ぐむ蕾の顔を、様々な角度から確かめてあげた。
 夜々は腕を組み、自分のこめかみの辺りを指先で叩きながら、彼女に声をかける。
「だから何もないって。……ていうか私は、こう言いたかったの」
 光莉と蕾が向き直って彼女を見る。
 夜々は熱っぽい視線をぴたりと蕾に向ける。蕾は思わずどきりとして息をのんだ。
 彼女の紅い唇がなまめかしく開き、やがて言葉を紡ぐ。
「――役不足」
「……んなっ!」
 言葉の意味を解釈した蕾は、耳まで真っ赤にして逆上した。
「な……、わ、わかってますよ、それくらい!」
 両手の拳をぶんぶんと振ってわめき散らす。
「どうせ私は、夜々先輩や光莉先輩と違って全然下手だし、歌詞だって時々間違えますけど。けどこれでもせいいっぱい頑張ってるんです。それのどこがいけなんですか!」
 必死に反論する蕾を受け流して、夜々は空々しく横を向いていた。小さな声で言う。
「だからそういう所が」
 蕾をなだめるのは光莉の方だった。
「蕾ちゃん、お、落ち着いて……」
 しかし、おろおろする光莉の声では、彼女に平静を取り戻させることはできなかった。
「だって夜々先輩がぁ」
「そうよ、蕾」
 夜々は言い放った。手を腰に当てて勝ち誇った笑みを浮かべている。
「……『イジりがい』という点では、物足りないわね」
 顔の横に持ってきた人差し指を立てて、悠然と振ってみせる。
「まあ、光莉にしたって、まだまだだけど」
「え」
 急に矛先を向けられた光莉は、わけがわからず体を硬直させた。
 自分だけでなく光莉にまで被害が及びそうになったのを感じ取った蕾は、光莉の前に立ちふさがった。及び腰ながらも夜々に対抗しようとする。
「もう、何でそんな意地悪な事ばっかり言うんですか?! そんなんじゃ友達なくしちゃいますよ!」
「いいもん」
 夜々は軽い口ぶりでそう言うと、蕾の前をするりと通り抜けて石畳の道を二、三歩進み、立ち止まった。
 見ている光莉と蕾に背を向けたまま、夜々はつぶやいた。
「――友達なんかいらない」
「……」
 いつもとどこか違う反応に、蕾は返す言葉を失ってしまった。と、夜々が顔を半分だけ見せて振り返った。
 流れる黒髪の向こう側で彼女の口元は微笑んでいたが、しかし光莉と蕾、どちらにも視線を向けてはいない。取って付けたような口ぶりで言う。
「そうだ、私、教室のお花に水をあげなきゃ。じゃあ、先に行ってるね」
 一方的にそう話すと、彼女は返事を待たずに校舎へと走っていってしまった。
「夜々、先輩……?」
 相手の唐突な行動の意味を、蕾は理解することができなかった。
 その後ろでは、手を胸に当てた光莉が、切なげな視線を、夜々の去りゆく後ろ姿に投げかけていた。

 御聖堂から離れた場所を通る細い道までたどり着いた辺りで、夜々は足をゆるめ、ついに立ち止まってしまった。腰を折り膝に手をついて、激しく呼吸する。
 聖歌隊のエースである彼女の肺活量をもってしても、この走り方は無茶だったようだ。何度空気を吸い込んでも吐き出しても、胸の中のよどんだものは、すぐには消えなかった。
 しばらくして、夜々はようやく上体を起こすことができた。しかしまだ呆然としていて、気を許したためか昔の他愛もない夢が再び彼女の胸に湧き上がってきた。
 何も知らない小さな頃に、抱いていた無邪気な夢。アストラエアの丘。そこには素敵な出会いが必ずあるはず。
 ――私を待っていてくれるのは、お姉様か、妹か、それとも同級生? 絶対に理想の女の人に出会って、胸をどきどきさせて、恋に落ちるんだわ。そして……。
 そして、二人は恋人同士に。
「――っ!」
 夜々は弾かれたように再び走り出した、うつむいたまま、歯を食いしばって。
 走るほど彼女の胸苦しさは増していく。だが学院の校舎はまだ遠かった。

 ***

 古びて落ち着いた色彩をたたえる寮の部屋の壁には、大きな鏡が取り付けられている。花びらに似た模様が浮き彫りにされた、チーク材の縁取りを持った姿見。その前に、一人の少女が立っていた。
 少女の肩には、暗くまどろむ夜気が漂っている。背中を隠すほどに伸びているカールした明るい髪が、スタンドの小さな光を受けてほんのりと色づいている。
 彼女は、パジャマの肩に羽織ったショールを静かに直した。次にゆっくりと手を差し出して、目の前にいるもう一人の自分に触れようとした。
 と、手を止めて顔を上げる。鏡の中の少女を見ている内に自然と言葉が漏れる。
「……私って、嫌な子、なのかな」
 光莉は顔を背けてその場から離れた。
 足音も静かに部屋の奥へ歩いていくが、しかし自分のベッドへは戻らなかった。
「……」
 彼女が立ち止まったのは、夜々のベッドサイドだった。光莉はショールの端を両手でしっかりと持って、夜々の寝姿をまっすぐに見下ろした。
「夜々ちゃん……」
 やっと喉の奥から絞り出したつぶやきは、自分でも驚くくらいの涙声だった。
 光莉の頭の中には、先程から同じ映像が繰り返し流れていた。
 ……夜々に初めての唇を奪われた時、思わず彼女を突き飛ばしてしまったあの日。そして、歌の練習をしていてたまたま体が近づいただけなのに、おびえて身を引いてしまった上に、見え透いた言い訳までしたあの日。
 すべては、この部屋で起きた事なのだ。
 ――でも夜々ちゃんは恨み言一つ言わないで、ずっとこの部屋に一緒にいてくれた。それだけでも私はすごく感謝しなくちゃいけない。感謝しなくちゃいけないんだけど。
「あんなに嫌な思いさせちゃって、今さら前みたいに戻れる訳なんてないよね。……でも」
 光莉は静かにかがんで床にひざまずいた。目の高さより少し下に、眠っている夜々の顔が見える。毛布から出た片手が、枕元に添えられている。
 彼女の秘やかな寝息が聞こえる。その規則的なリズムに耳を傾け、光莉は誘われるように目を閉じた。
「……あの頃みたいに、また触ってほしい……」
 ごく小さくだが、そう言い切った光莉は、自分の頬が熱くなるのを感じた。
 その思い出なら幾つも、幾つもあった。いちご舎の食堂で、御聖堂で、教室でも、カフェでも、体育館でも。夜々は光莉の肩を抱きしめ、髪をなでていた。
 そうされるたびに、いつもときめいている自分がいるのを、光莉はよくわかっていた。夜々の大胆な行動に驚かされてばかりいたが、どういうわけか不思議と――。
「嫌じゃなかったの」
 言葉が止まらない。光莉はうっすらと目を開けてベッドの向こう側の白い壁を眺めた。
「どきどきもしたけど、……安心できたの」
 しなだれかかる髪も気にせず、そのままゆっくりと体を傾ける。
「私、やっぱり変だよね」
 彼女はベッドのへりに身を預けた。すぐ目の前に、夜々の寝顔があった。
 光莉は枕元へ手を伸ばし、軽く握られた夜々の指先に触れる。
「夜々ちゃん……」
 そこで光莉は静かに、軽く吐息を漏らした。腰を浮かせて身を乗り出す。
 寝入っている夜々に気づかれないように注意しながら、光莉は彼女の頬の辺りへ自分の顔を近づけた。
 夜々の手に触れたまま、光莉は彼女の頬に唇を添わせた。息を吸い込み、つぶやく。
「夜々ちゃんのにおい……」
 光莉は涙がこぼれそうになる目を閉じ、唇を相手の肌に伝わせていく。
「懐かしい」
 やがてその行く先にある、夜々の唇と重なり――。
「う……ん」
 夜々は寝返りを打った。無意識に毛布を肩の上へ引っ張り上げる。ふと自分の手にぬくもり――というより熱――を感じて目を開いた。
「……」
 と、ちょうど光莉が自分のベッドへ入るところが見えた。お手洗いにでも行ってきたのだろう、だがその割には動きがあわただしいようにも感じられる。
「?」
 夜々は一瞬不思議に思ったが、別に何もせずすぐにまた眠りに落ちた。

 次の朝早く、光莉と夜々は連れ立って学院への道を歩いていた。
 傍目から見ればごく普通の友達のように、二人は会話をしながら歩いている。夜々は続けて光莉に話しかけた。
「で、その後のブレスは、できるだけ深く、でも短くやらないと。歌詞の意味がつながらなくなっちゃうのよ」
「そうなんだぁ……」
 光莉は夜々の解説に興味深くうなずいていたが、その実どことなく落ち着きがなかった。
 理由は、昨日なかなか寝付けず寝不足気味だったから、ではない。むしろ眠れずに夜通し考えた結果が、今の彼女を浮き足立たせていた。
 彼女は、自分の肩の辺り、そこにかかる髪の具合を気にしている。彼女が見ているのは毛先に近い部分だったが、どういうわけかそこだけウェーブが乱れ、先があらぬ方を向いていた。
 だが光莉は、髪を直そうとはしていない。むしろ乱れを強調するように、肩を少し揺らしたりすぼめたりしていた。
 夜々は彼女の仕草には気づいていないらしく、隣で自分達の歌について話を続けている。
「ここの歌詞は、元の言葉だとね――」
「ん……」
 光莉の声を聞いた夜々は、ふと口をつぐんだ。聞こえてきたのは、言葉にならないほど短く、くぐもった、甘い声だった。
 夜々が目を向けると、立ち止まった光莉は熱っぽく潤んだ瞳を彼女に向けていた。何かを求めるような上目遣いの瞳を。
「光莉……」
 足を止めて向き直った夜々は、ようやく彼女の名前を呼んだ。が、視線を彼女から離すことができないらしく、その後言葉もないまま彼女を見ている。
「……」
 相手の正視を一身に受けながら、光莉は一言も発さず身じろぎだけした。夜々に気づかれるかどうかのところで、肩をすぼめ、恥ずかしい髪の毛先を彼女の目にさらす。
「あ……」
 夜々は絶句している。光莉ももはや体を動かさず、じっと夜々だけを見つめている。
 そっと、夜々が手を差し伸べようとした。
「光莉、……あの、髪」
「先輩方、おはようございまぁす!」
 突然誰かが二人の間に飛び込んできた。晴れやかな朝に似合いの元気な声で二人に挨拶をする。
 ヘアバンドで押さえた長い髪が印象的な女の子だった。
「――蕾」
「はい、夜々先輩!」
 昨日いいように弄ばれたことなどすっかり水に流している蕾は、夜々のそばに回り込み、にこやかに笑って返事をしている。
「今日も朝から元気ね」
 彼女の明るい表情に当てられ気味の夜々に、蕾ははきはきと答える。
「ええ、今朝は何だか喉の調子が良くって、それだけでもう、うきうきです」
 蕾は頬に添えた手でブイサインを作ってみせる。
「これだったら何曲だっていけそうかも!」
「まったく、調子いいんだから、この子は」
 夜々は苦笑しながら再び歩き始めた。蕾がすぐについてくる。
「ですから『調子がいい』って、言ってるじゃないですかぁ」
 言葉の語呂を楽しんでいる蕾も微笑んでいる。
「はいはい」
 軽く答えながら夜々は、間違いなく一緒に歩いているであろう光莉の方を振り返った。
「……!」
 しかしいつもの場所である自分の隣に、彼女の姿はなかった。
「光莉――」
 急いで周囲を見回すと、彼女は、先程立ち止まっていた場所にいた。かばんを持ったまま頭だけ深くうつむいている。
 不思議そうにしている蕾をさしおいて、夜々は光莉に駆け寄った。
「あの……」
 すぐにそばへたどり着いたものの、夜々は言葉を続けられなかった。光莉の肩に手を伸ばそうとして、しかし引っ込めてしまう。
「光莉先輩?」
 遅れてやって来た蕾は、光莉の腕にやすやすとしがみついて、心配そうに彼女の顔をのぞき込んだ。
 そこに彼女が見出したのは、つらそうにして目にいっぱいの涙をためている光莉の表情だった。
「く……っ」
 光莉は両手で顔を隠してしまった。しかし指の間からは、涙のしずくが押さえようもなくこぼれてくる。
「え、あ、あの」
 いつも頼りにしている先輩の流す突然の涙を受け止めきれず、蕾はあわてふためいてしまう。
 悲しみに喉を詰まらせた光莉の声が、彼女の耳にかすかに聞こえてきた。
「私って……嫌な子……」
「光莉先輩、これっ」
 聞いてはいけない言葉だったような気がして、蕾は夢中で自分のハンカチを取り出し、光莉の指にあてがった。光莉はわずかにうなずいて、ハンカチを受け取り自分の目に当てた。
「えっと……よしよし」
 どうしたら良いのかわからなくなってしまった蕾は、つい光莉の頭をなで始めた。次いで助けを求めて夜々を振り返る。
「光莉……」
 夜々も事態が把握できなかったのか驚いた表情をしていた。しかし蕾の視線に気づくことで、自分を取り戻したようだ。光莉のすぐそばに立った。
「……っ」
 か細い泣き声とともに、光莉は弱々しく首を振る。
 それでも夜々は彼女に近づき、優しい声で彼女に言った。
「かばん、持つわ」
 光莉はすぐに応えなかったが、夜々は言葉を止めて、静かに待った。
 やがて、おそるおそる、光莉は腕に通していたかばんを夜々に渡した。
「行こう。ね?」
 変わらない柔らかな口調で、夜々は光莉を促す。
 光莉は小さく頼りなげにうなずいて、歩き出した。夜々も連れ立って歩き始める。
 だが夜々は、光莉の肩にも腕にも、触れることは決してなかった

 ***

 蕾は、並んで歩き去っていく光莉と夜々の後ろ姿を、なすすべもなく見送っていた。二人の背中が、ひどく遠く見える。
 いつの間にか差し伸べていた手に気づき、所在なく下におろす。
「……先輩の頭なでるなんて。どうかしてるよ、私」
 大きな溜め息をつく。ふだんからなで気味の肩を、さらにがくっと落とした。
「『役不足』って、こういう事?」
 朝早いため他に人通りはなく、彼女の愚痴のような問いかけを聞いてくれる者はいない。
 蕾は目を上げて光莉と夜々の姿を追った。
 ――そばにいても、邪魔になるだけなのかなぁ。
 そう思ってしまうと、とたんに蕾は切なくなった。胸の奥の方が冷え込んで、思わず抱きしめたくなる。
 ――このまま光莉先輩と夜々先輩から、離れて生きる?
「!」
 蕾は思わず首を強く振った。そんな選択肢は、彼女にとって考えられないものであったし、考えたくもなかった。
 彼女は拳をぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
「そうだわ。役不足だって言うなら、役に立つようになればいいのよ!」
 自分自身の言葉に背中を押されて、蕾は走り出した。
 ――あそこにいたい。光莉先輩と、夜々先輩の隣に。
「夜々先輩、かばん持ちまぁす!」
 蕾は手を振りながら、少しだけ距離を作って歩いている夜々と光莉の背中に追いすがっていった。
 ――だって、私は。
 石畳の小径をまっすぐに駆け抜け、蕾は夜々から二人分のかばんを受け取って一緒に歩き始めた。

 夜々、光莉、そして蕾。三人の肩には、昇り始めたばかりの淡い朝の陽差しが、静かにこぼれていた。

-- 了 --


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(c) 公野櫻子・メディアワークス / いちご舎
2006.11.5 Written by ギンガム from 百合佳話 [ゆり/かわ]