インデックス まえがき あらすじ


 まばゆい陽光を浴びる校庭の端に立ち並んだ桜が、満開の枝を暖かいそよ風にふわふわと揺らせている。春という季節の始まりを象徴する景色は、一年ドゥ組の教室の窓からは、たいそうはっきりと眺めることができた。
「――その帰りにね、アン組の前を通った時、ちょうど教室のドアが開いて、天音さんが出てこられたの」
「うんうん」
 まだ真新しい聖スピカ女学院の白い制服を身にまとったローティーンの少女達が、うっとりした口調でうわさ話をしている。
「ドアのそばを歩いていたから、私、天音さんにぶつかりそうになっちゃって」
 机を数個向き合わせたにわかテーブルの上には、先程まで盛んに使われていたランチボックスとはしやフォークが、今はきちんとたたまれていた。代わりにテーブルの上を飛び交っているのは、その持ち主達のにぎやかな会話だ。
「それでね、こんな風に、よけようとしたら倒れそうになって」
 休み時間の出来事を話す少女のテンションは、身振りまで入ってますます上がっていく。
「そうしたら天音さんがさっと肩を抱いて支えてくださってぇ。『大丈夫、けがはない?』……って」
「きゃー!」
「天音様ぁ」
 黄色い歓声を上げる同級生達と同じテーブルに、鬼屋敷桃実(きやしきももみ)は着いていた。膝の上で両手の指先を組み、少し首をかしげ、片目を閉じて、無言で窓の外を見ている。両サイドを控えめに結んだ明るいブラウンの髪が、窓から入ってくる緩やかな風に揺れている。
 同級生達のやりとりは、学院内の甘いエピソードを求めてさらに熱を帯びる。
「そういえばトロワ組の子に聞いたのだけれど、要さんが――」
「要さんが?」
 せっつく相手を押しとどめて、その少女は記憶をたどる。
「今朝の全校朝礼の後に、貧血で倒れちゃった子がいて、その子を抱き上げて保健室まで運んだ、って」
 すぐに隣の少女が反応した。
「それ、私も聞いたわ!」
――この人達は。
「見てみたかったなぁ、その場面」
「……それより私が運ばれたいかも」
「いやぁん!」
――この人達は、悪くない。
 桃実はいつもそう考えていた。
 年頃にさしかかった女の子が、魅力ある人に興味を持ち始めるのは誰にも止められない。スピカをはじめ三つの女子校が建ち並ぶここ、アストラエアの丘では、憧れの対象が同じ女性になる事など珍しくもなかった。彼女達は、颯爽とした先輩やりりしい同級生をちょっとでも見かけようものなら、浮き足立って嬌声を上げたり、挨拶をしただけではしゃいだりしてしまう。
 それ自体は、悪くない。
 問題なのは、この子達を取り巻く環境だ。桃実の中にはそんな答えができあがっていた。
 聖スピカ女学院の理念は、社会に進出し活躍する女性になる事。聖ミアトル女学園のように伝統を重んじ、昔ながらの教えに厳格に従うのを務めとはしていないし、聖ル・リム女学校のように慈愛を尊び、無益な争いを徹底的に避ける校風でもない。スピカ生に求められるのは、誰にもおもねらず自立して、男性と肩を並べるほどの社会的地位を築くことなのだ。
「天音さんって、乗馬部に入られたのよ。ねえ、今日の放課後、馬場に行ってみない?」
 もっとも、学院の理念なんて、入学のしおりか学院長の講話くらいでしか聞いたことがない。気にも留めない子がほとんどだろう。生徒達の間で話題になることもまずない。
 だがその意識には、現実との大きなギャップがある。スピカ生は、スピカ生であるというだけで、周囲から期待の目で見られるのである。本人達の考えなどお構いなしだ。
「私、天音さんにお手紙書いちゃおうかしら?」
「あ、私も!」
 盛り上がる友人達の会話を耳元で遊ばせながら、桃実は少しだけ頭を動かして外の桜の方を向いた。
 この人達は、社会と比べたらあまりにも小さいこの学院の環境で、既に満たされてしまっている。そして、――例えば、鳳天音(おおとりあまね)と剣城要(けんじょうかなめ)だったか――中性的な雰囲気のある生徒を男子に見立てては、恋愛のまねごとをして喜んでいる。
 こんな事では、いざ社会に出た時に、男性に足下をすくわれ、いいように引き回されるのが関の山だろう。自立なんてたいそうな事など、とても望めるものか。
――だったら、あなたはどうなの、鬼屋敷桃実?
 桃実は、自分の肩がぴくりと震えるのを感じた。頭の中にわだかまる懸念に冷や水をかけるのは、いつもこんな、自分自身に向けた問いかけだった。
 批評家ぶって冷静に状況分析しているつもりの自分がどれほどの人間なのか、本人である彼女にはわかりきっていた。
 自分は親の庇護の下で何の努力もせずに生きてきた。必要なものは金の力にあかせてすべて与えられ、取り立てて自分から何かを求める必要もない。自分でもそうだと自覚するほど、満たされた生活を送っていた。
 進学にしたって同じだ。母親の勧めるままに手続きをし、試験を受けて合格し、結果的にこのスピカにいるというだけの事だった。別にミアトルだってル・リムだって、どこでも良かった。
――十中八九、と、桃実は思った。これからの六年間を、自分はずっと同じ思いで過ごすのだろう。何かが変わる見通しも予感も、ない。ゆえに希望もない。自分の目の前に横たわる、さえない灰色の未来を、桃実はほぼ確実に予知できていた。
「ふ……」
 後五回。あの桜が咲いて、散るのを見る。そうしたらこの丘からも離れて、また別の場所で、変わることのない気持ちを抱えて生きていく。それが総てだった。
「――桃実さん?」
 目を上げると、向かいの席の少女が心配そうに身を乗り出していた。
「どうかされました?」
「どこか具合でも」
 桃実の隣の少女が腕に手を触れてくる。
「ひょっとして……すみません、桃実さん、こういう話題はお嫌いでしたか?」
 別の少女が申し訳なさそうな声で桃実に尋ねた。
 桃実は、窓の方へ半分向けていた姿勢を変えず、いったん目を閉じた後、柔らかな微笑みを浮かべた。クラスメイト達に窓の外を見るように促す。
「ごめんなさい、あまりにも桜がきれいだったもので、つい」
「……まぁ、本当!」
「こんなに咲きそろって。一番の見頃ですね」
 少女達は、先程までと同じにぎやかさで、今度は花を愛で始めた。彼女達にとっては、女性も花も、同じレベルなのだろう。
「今年のアストラエアの桜は、時期が少し遅れている、って先輩方がおっしゃってました」
 桃実は上等な笑顔を意図的に作って、彼女達を振り返った。
「明日も晴れていたら、あそこでお昼を食べてみませんか?」

 春の日は長い。一年生の授業が終わり、清掃やホームルームなどの用事がすっかり片付いても、屋外はまだ明るかった。
 桃実は、一人で校門への道を歩いていた。昼間一緒だったクラスメイト達は多くが部活に所属していて、放課後すぐに帰る者は少ない。
 部活動をしていない子は、桃実の他にも二人ほどいた。いつもなら彼女達と連れ立って自分達の寮、いちご舎へと向かうところではある。だが今日ばかりは、乗馬服に身を包んだ天音の麗しい姿を目に収めるために、彼女達は乗馬場へと走っていたのだった。
 話し相手がいないだけで、特に何を感じることもなく桃実は歩いていた。気がつくと、昼間皆と話していた桜並木にさしかかっている。彼女は歩を緩めながら頭上を仰いだ。
 桜は、植物としては異常なほど生い茂った花を身にまとわせている。ほとんどが開き、かつひとひらも散っていない今は特に、何かこの世ならざる空気さえ漂わせている。それでいて、狭い枝の上に密集して可憐な花びらを見せる姿は、どこかの何かを思い出させる。とても身近にある、毎日見ている何かを。
 桃実は、いつの間にか立ち止まり、満開の桜を眺めていた。
「きれいだね」
 突然の言葉にたちまち頬を染めながら振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。
 スピカの制服を着た相手の背丈は高く、細面の精悍な顔立ちに、潤んだつぶらな瞳が柔らかい印象を与えている。首筋までの髪の色は、桃実と違って濃い黒だった。
「私もここの下はよく通るのだけど、今日の咲き具合は、一段ときれいだ」
 最初に聞いた形容が自分を指していないことに気づいて、桃実は自分の反応を恥じた。が、相手の美しさに魅せられるあまり、頬の赤らみはなかなか落ち着いてくれない。彼女はいたたまれなくなって横を向いた。
「そうですね。思わず、見とれて……しまうくらい」
 桃実は横目でちらりと見返す。
「あぁ、自己紹介がまだだったね。私は鳳天音、一年アン組です」
 彼女の名前は、桃実をかえって冷静な気持ちにさせた。この人が、昼間皆が騒いでいた、噂の。
「こんにちは。一年ドゥ組の鬼屋敷桃実と言います」
 彼女達が浮き足立つのも無理はない、それほどの美貌を持つ天音に向かって、桃実は見せつけがましく深々と頭を下げた。
「いきなり声をかけてしまって、済まない」
 さすがに気づいたらしい天音は恐縮した。
「いつもはこんな事はしないのだけれど……」
 天音はやや腰をかがめ、桃実に視線の高さを近づけた。
「何て言ったらいいのかな、君の表情がとても、寂しそうに見えたから」
――寂しい? 桃実は思わず繰り返しそうになっていた。
 これまで周りの人間から自分を評価される機会があっても、そんな言葉は使われたことがなかったからだ。
 黙っている桃実を見て、天音は急にわびた。
「失礼。いきなり会ってこんな事を言われても戸惑うだけだよね」
 彼女は胸に手を当て、誠実な表情になる。
「でも、もし、本当に何か悩み事があるなら、いつでも相談に乗るよ。その時は教えて」
 桃実の瞳の奥に視線を送って、彼女はその場から離れた。
「私は部活へ戻らなければならないので、これで」
「失礼します。……ありがとうございました」
 桃実の返事を聞いた天音は、にこりと微笑んで身を翻し、乗馬場へと走っていった。
 桃実はその場に残され、声もなかった。突然見舞われた様々な感情に当惑している。
「寂しい……。私が」
 会話を終えて去りかけた時の天音の表情の方が、よほど寂しそうに見えた。
 桃実は、振り返った。天音の言葉や仕草を繰り返し思い出しながら、いちご舎への道を歩き出す。

「見ましたよ、桃実さん!」
 シックな造りの寮の扉が開くなり、桃実のルームメイトがそう言いながら、セミロングの髪を振り乱して部屋の中へ飛び込んできた。
「お帰りなさい。何をご覧になったんですか?」
「もちろん、桃実さんが天音さんと『逢引き』するお姿!」
「……」
 桃実は何も言えなかった。この人も、クラスの友達と同じで、天音や要のような魅力的な人物に熱を上げてしまうタイプなのだ。
「っと、『逢引き』はちょっと言い過ぎでしたね。でもにこやかにお話するお二人の様子は、見ていて本当にうらやましかったわぁ」
「でしたら、声をかけてくだされば良かったのに」
 相手は心得顔で首を振る。
「どこか邪魔してはいけない雰囲気がありましたので。いえ、それにお二人がとてもお似合いで」
 彼女は桃実の表情がかすかに動いたのには気づかず、自説を繰り広げた。
「満開の桜並木の下、見つめ合う桃実さんと天音さん。たとえ言葉を交わさなくても、麗しいお二人は、とても絵になってましたよっ」
 桃実は、自分の顔を隠すように、手のひらを頬に当てた。確かな熱が伝わってくる。
「……恥ずかしい」
 彼女は、こういう形で目立つのを好まなかった。人々の間にいるのは嫌いではないのだが、自分が望まない扱い方はされたくない。
 なのにこの少女は、桃実の心中など察することもできずとても陽気であった。
「私は、お二人を応援してますからね!」
「……」
 彼女は、頬を薄く染めて黙りこくっている桃実を見て、満足げにうなずいた。桃実が自分の言葉に照れていると考えたらしい。
 確かに照れてはいたかもしれない。が、同時に、桃実は困り果ててもいた。

「何でこんな事に?」
 この時つぶやいたのと全く同じ言葉を、桃実は翌日の体育の時間に繰り返していた。
 肩をすぼめ、背中を丸めた体勢の彼女は、他クラスの生徒の胸にしっかと抱きかかえられ、保健室へと運ばれていく最中だった。
 ドゥ組とトロワ組の合同授業で、走り高跳びの練習をしていた時、踏み切りに失敗してバーに体をぶつけてしまったのだ。
「苦しかったら遠慮しないで言ってちょうだい」
 桃実を抱える同級生は、渡り廊下を駆け抜けながらそう言った。
 桃実は、何も言わずに相手の顔を見上げる。
 切れ長の目と細い眉が、鋭い印象を与える少女だった。襟足の短い髪が、風にあおられてはたはたと揺れているのが見える。自分のももと背中に伝わってくる彼女の両腕の感触は、細い割にはとても安定していて、走っていることを忘れさせるほどぶれがない。
 彼女が、要だった。桃実が抱え上げられた時にクラスメイト達がそう叫んでいたし、何より顔を見てすぐにわかった。噂に違わぬ美少女だ。
「あの……」
「ん、どこか痛い?」
「いえ、あの、ありがとうございます」
 恥ずかしがりながらそう言うと、要は薄く口を開いて笑った。
「お礼なら、君の事を私に知らせてくれた子に言ってあげて」
 たぶんその子は、要と会話するきっかけがほしくて自分をだしに使ったんだ――。などという意地悪な考えも頭をよぎったが、そんな言葉を咀嚼している余裕は、今の桃実にはなかった。抱かれている体勢であるためよそを向くこともできず、彼女はもう黙って要を見上げているしかなかった。その美しい面差しを。

 期待していたよりも意外にあっさり保健室に到着し、桃実は在席していた養護医から迅速に手当を受けた。ところがすぐには解放してもらえず、次の時間までベッドで休むよう言い渡されてしまう。彼女がけがをした本当の原因が、寝不足による不注意である、と見抜かれていたためだ。
 桃実は、白い清潔なベッドに身を収めながら、思っていた。養護医が医療に詳しくて寝不足を言い当てたとしても、なぜそうなったかまではわからないだろう。昨日、桜の木の下で出会った少女の面影が、この胸の中に渦巻いていて眠れなかったなどと。
「……あなた、なぜ?」
 桃実は慌てて体を起こそうとしたが、できなかった。体の痛みがぶり返していたのと、ベッドサイドにいた人物に押し返されたためだ。
「寝てなさいって、先生に言われたばかりでしょ」
 その人物、要は、桃実の肩に毛布をかけ直すと、さも当たり前のように、ベッドサイドの丸いすに座った。
「あの、先程は、ここまで連れてきてくださって、お手数をおかけしました。でもなぜ、まだここにいるんです?」
 自分はついさっきまで、あの腕に抱かれていたんだ、と思うと、桃実はいたたまれなくなる。染まる頬を隠すように毛布に顔を埋めながら、いつもの慇懃さをつい忘れて問いただす。
「なぜ、って。それは……」
 要は、椅子から身を乗り出して何とか桃実の顔を見ようと首を伸ばしていたが、やがて元の位置にすとんと腰を落とした。
「何でもない」
――何でもない、ってどういう事ですか?!
 大声で叫びたかったが、その体力はなく、またあまりに自分らしくない行動だと思えたため、実行には移さなかった。それに、今のこの相手には、何を言っても通用しなさそうな気がしていた。
 続く体育の授業中ずっと、桃実はベッドで横になっていた。しかし、すぐそばでずっと要に見守られていたこともあって、休めたとは言えなかった。次の授業を受けようと起き上がろうとすると、要は先に立ち上がって、桃実の足下にシューズを用意する。桃実は、クラスメイト達が持ってきてくれていた着替えを差し出され、相手のやり方に従わざるを得なかった。
 ドゥ組の教室でもまた一騒ぎが起きる。桃実と、付き添いの要が一緒に現れると、教室内の女生徒達はいっせいに色めき立った。体調を崩した桃実を気遣って、大声を上げることが控えられたとはいえ、桃実が、自分の席に着くまでずっと要に肩を抱かれ支えられ続けいているのを、クラスメイト達は目を皿のようにして見つめ、近くの友達とひそひそ話をまくし立てていた。
「わざわざすみませんでした」
 自分を椅子に座らせた後もいっこうに去る様子がない要に向かって、桃実は深々と頭を下げた。が、それでも要は身じろぎもしない。
「気にしないで。君の体はとても軽かったから苦もないよ」
 周囲からの刺すような視線に気づいているのかいないのか、要は、桃実を見下ろす目をそらさなかった。
「ですから――」
 桃実が言いかけた時、校舎に予鈴が鳴り響く。さすがにこうなると、要も引き上げないわけにはいかない。彼女は一歩後ろへ下がった。
「体が痛かったらあまり無理はしないでね。それじゃあ」
 きびすを返して歩み出す。
「また」
 悠然とした身のこなしの要が教室から出て行くと、背中を見送っていたクラスメイト達はいっせいに桃実のもとへ殺到した。そこからは、桃実に考える隙を与えないほどの質問攻めである。桃実の体調は気になりつつも、興味は抑えきれず、彼女達は口々に言葉を投げかける。そのかしましさは、次の授業の教師が教室に入ってくるまで続いた。

 この日、桃実には、一つわかった事があった。同級生達の気質についてだ。
 彼女達は、要と急接近した自分に対して、嫉妬するような感情は全く抱いていなかった。自分に質問してくる生徒が要に興味を持っているのは間違いないのに、自分が保健室で彼女とどのように過ごしていたかをありていに話しても、うっとりと聞き入りこそすれ、うらやましがったり、ヒステリックに拒否したりするなどといったことは全くない。何が彼女達をそうさせるのかはわからなかったが、その性質――大らかさ、と言えるだろうか――が、アストラエアの乙女達の特徴なのかもしれないと、桃実には思えた。

「そんな事より」
 友人達への一段深化した考察は、この際不要だった。桃実には、もっと憂慮すべき事態が待ち受けていた。
「何か言った?」
「いえ、何でもありません」
 すぐ隣で軽やかに絵筆を走らせていた要が明るく尋ねてきたので反射的に答えていた。
 美術の合同授業で、室内の静物を描く課題が与えられると、要はすぐさま桃実の隣へやって来て、さも当たり前のように同じモチーフを描き始めたのだった。
「知ってる? いちご舎の屋根裏には、昔の生徒達が描いた油絵や水彩画が置いてあるんだって」
「そうなんですか」
 できるだけ自分の作品に集中しようと手元を見つめている桃実の横顔を、要は探るように眺める。
「美術館に収蔵されてもおかしくないような傑作もあるなんて言われてるけど、本当なのかな」
 質問とも独り言ともとれそうな言葉に桃実が返事をせずにいると、これ以上のおしゃべりは授業の妨げになるとでも考えたのだろうか、要はそれきり口をつぐんで、しなやかに手を動かした。
 一事が万事、この調子だった。休み時間に教室を移動する時や、登下校の道すがらなど、要は桃実を見るなりすぐに迫ってくるのだが、かといってしつこいわけではなく、去り際を心得ている風だった。寮の中であまり話しかけてこない姿勢も一貫していた。
 その態度が、反対に桃実の思いを波立たせた。いっそひどい接し方をしてくれた方が、嫌うことだってできるのに。あの美貌の持ち主に少しでも優しくされると、気になって仕方がなくなる。
 こんな気持ちになるなんて、まるで自分じゃないみたい。桃実は、物心ついてからつい先週くらいまでの間ずっと変わらなかったはずの自分を、懐かしくさえ思った。

「天音さん」
 桃実は、呼びかけた相手が振り向きざまに見せた潤んだ瞳に再びときめきを覚えながら、何とか目をそらさずに天音に向き合った。
「君は……桃実さん。どうしたの?」
 教室移動の最中、渡り廊下の真ん中で天音に出くわした桃実は、ここしばらく考えていた事を切り出そうとした。
「あの、実はお聞きしたい事が――」
「まあ、天音さんと桃実さんがっ!」
 しかし場所が良くなかった。夢見がちで好奇心旺盛な同級生の一人が、クラスが別々の美少女二人の取り合わせを見つけ出して騒ぎ始めた。
 このところ、要が盛んにアクセスしてくるおかげで、周囲はそういう目で桃実を見る傾向にあった。『そういう』というのは、特定の女生徒同士で特に親密になる、という意味だ。桃実と天音については、以前桜並木の下で会話しているのを目撃された実績とも言えるものがあるため、よけいに目を引くのだろう。
 廊下を歩いていた生徒達が振り返るだけでなく、校舎内にいた生徒までもが騒ぎにつられて出てきた。桃実はとてもいたたまれなくなる。
「何でもありません、失礼しました!」
 深く頭を下げ、元来た方へ走って引き返す。
 かつて自分の様子を『寂しそう』と表現した天音なら、ざわめきが収まらない今の自分の気持ちを、冷静な言葉で落ち着かせてくれるかもしれない。それどころか、要との接し方について現実的な対策を何か考えてくれるかもしれない。そのような期待から、天音と話してみたくなったのだが、事はうまく運ばなかった。
 桃実はその後も何度か接触を試みたものの、相手に相談を持ちかけるまでには至らなかった。そうなったのは、同級生達の好奇の目に耐えられなかったから、だけではない。自分から誰かに話しかけて自分の思いを打ち明けるといった振る舞いなど、彼女は今まで一度たりともしたことがなかったのだ。どうすれば良いのか、彼女は自分の中から答えを見つけ出すことができなかった。

 要の熱い視線を背中に浴びながら、天音の後ろ姿を追い求める、そんな桃実のはかなげな姿は、生徒達の間ではなはだ話題になった。この三人がいったいどういう関係にあるのか、生徒達は声を潜めながらまくし立て、自分達の憧れや希望、ロマンティックな想像を、彼女達の一挙手一投足の中にありったけ詰め込もうとするのだった。
 人の、特に年頃の少女達の口に戸は立てられない。彼女達は、近くに桃実がいてもいなくても、何かにつけて桃実のあれこれを口にした。
 もう完全に噂が一人歩きしてしまっている。桃実が何を言っても、あるいは何も語らなかったとしても、彼女の周囲の華やかな喧噪がやむことはなかった。

 桃実は、放課後のスピカの屋上に来ていた。部活動をしていた生徒達もあらかた帰り、校舎やその周りから喧噪は消えていた。
 彼女は深く呼吸をしてから、屋上への出入り口になっている鉄扉の方に体を向ける。
 正に開いた扉から現れたのは、要だった。要は、桃実の表情やたたずまいを見た後、微笑んだ。
「君が私を呼び出すなんて珍しいね」
 桃実は答えず、要につかつかと歩み寄った。相手の顔を見上げながら、制服の袖を引く。
「……」
 要は、桃実にされる通りに導かれ、階段室の外壁の陰へと回り込んだ。
「今日来ていただいたのは、私の悩みを聞いてほしかったからです」
「ふうん」
 桃実は視線を下げ、ややうつむいた。
「この頃私の周りがあまりにもにぎやかで、落ち着かないんです。あなたに会ったあの日からずっとこんな調子で、気が休まったためしがありません」
 彼女は静かに顔を上げ、確かめるように要の顔を見た。
 要は、真顔の桃実を見つめ返し、言った。
「良かったじゃない」
 その一言で、桃実は顔を真っ赤に染め、叫んだ。
「何が良いもんですか。今まで何事もなく静かに生活してきたのに、こんなに騒がしくされて、私は迷惑してるんです!」
 自分らしくなくたってかまわない、もう桃実は我慢できなくなって、自分の力の限り声を荒げた。
 しかし要には、ひるむ様子さえ見えない。桃実のなけなしの声量ではどうにもならなかったし、要本人も何かを確信しているらしかった。
「少なくとも迷惑そうには見えなかったけど」
「何でそんな事が言えるんですか。あなたは私の気持ちをわかっているとでも言うんですか?!」
 かみつく桃実に、要は落ち着き払って答える。
「わかっているよ」
 要は、桃実の胸元へ自分の人差し指を突きつけた。
「言わなくてもわかる。君の表情をよく見ていればね」
 彼女の人差し指が自分に近づいてきたような気がして、桃実は急いで体ごと横を向き、両腕で自分の前身を隠した。
「……あなたも、私が寂しそうだとおっしゃるんですね」
 言葉に反応がなかったため、桃実は思わず要の方へ顔を向ける。
 要は、驚いたような表情をしていた。
「寂しい――?」
 心底意外そうな口ぶりだ。
「え、だって……」
 要の反応に口ごもってしまった桃実を見て、要は何かを覚ったようだった。微笑みを浮かべて言う。
「誰に何を言われたのかは知らないけど、君は寂しがってなんかいない。私にはわかる」
 桃実は反発しなかった、実のところ、この形容は自分にはそぐわないのではないかと、最初からうすうす感じてはいたのだった。
「じゃあ、私の気持ちはどんなだって言うんですか」
 ひどく間の抜けた質問だと、自分でも思った。しかし、要が自分をどのように受け止めているのか、本人の口から聞きたい、と、桃実は痛切に願っていた。
「君の今の本心は」
 要はいったん言葉を区切り、桃実の目を見つめた。
「『退屈』、だ」
「――は?」
 思わず聞き返してしまう。
「君は、今の生活に飽き飽きしている。どうしてそこまでになったのか理由は知らないけど、勉強や運動、どれをとってもつまらないみたいね。何か驚くような事をしたいのに、やり方がわからなくて悩んでいる。そうなんでしょ?」
「……」
 決定的な言い方が少し気にくわなかったが、反論はできなかった。
 要の言葉が、驚くほどすんなりと腑に落ちたからだ。反対する理由をくどくど考える気にもならなかった。
 何も言わない桃実を見て、要は言葉を続けた。
「私は、君のような美しい女性が不満げにしていることに耐えられない。君はもっと毎日に充実して、生き生きとしているのが似合っている。もっと笑ってもいいはずだ、そう思ったのよ。だから――」
「だから私につきまとった、と?」
 要はにんまりと笑った。切れ長の目に宿る光が、桃実を引きつける。
「その言い方は心外だけど。でも、それなりに暇つぶしにはなったんじゃない?」
 ここしばらくの出来事が、桃実の胸をよぎる。要はいつも突然現れ、笑顔と話題を振りまいていく。二人の周りではクラスメイト達が騒ぎ立て、いつもどこかしらで、要か自分の名前がささやかれている。憧れのまなざしを向けてくる女の子達から繰り返し尋ねられる似たような質問に毎度毎度答えるのも、実は苦ではなかった。
 突然、桃実は思い出に浸るのをやめた。冷たい、表情のない声を出す。
「私は、親に請われ、親の資金でこの学院に通っています。私がここで学ぶべきものは既に決められているし、それ以上のものは求められていません。私が何かできる余地なんて――」
 その先が継げなくなった。自分で言っていてやるせない気持ちになった。
 ため息をついてうつむきかける。が、その時、要の自信に満ちた声が降ってきた。
「余地ならある」
「どこに?」
 桃実は、顔を上げずに言い捨てる。
「あるよ」
 不意に、桃実のあごの下に手が差し入れられた。軽い力で顔を上げさせられ、桃実は要と目を合わせる。
「学院で六年間勉強して卒業しろ、というならそうしてやればいい。君が周りから求められているのはそこまでなんだよね。だったら、卒業しさえすれば、後はどんな事をしたってとがめられない。思い通りに振る舞えばいい」
 桃実はこの瞬間、胸を突き動かされる気がした。
「思い通り、と言われても。いったい何をしたら良いのか」
「何でも。君の気が向くように。そうね、例えば」
 要は桃実をじっと見てから、顔を離し両手を広げて高く掲げた。
「この学院の生徒達を支配する、っていうのはどう? いえ、スピカだけじゃ足りない、ミアトルもル・リムもその手に収めて、君臨するのよ、女王のようにね。君にはそれぐらいが似合ってると思うわ」
 朗々と自説を披露した要は、言葉の最後に、右手でうやうやしく桃実を指し示した。
「ふ……あは」
 桃実は、思わず吹き出した。人前で声を上げて笑うなど、これまでの自分ならあり得ない素行だったが、今はもうそんな事はどうでも良かった。要の言うように、気の向くようにしていたかった。
 その要も、歓喜の表情を隠せずにいた。
「思った通りだ。君の笑顔は美しい……!」
 桃実は、笑っているためにややおぼつかない足取りだったが、要にさらに一歩近づいた。
「女王でも何でも、なれそうな気がしてくるわ。あなたと一緒なら」
「私も、こうして君のそばにいるだけで、野望がわいてくるよ」
「ねえ」
 呼ばれた要は、すぐそばで自分を見上げている桃実の瞳に、改めて見入った。
 桃実は、まだ笑みの残る顔を相手に向ける。
 右手をするりと相手の頭の後ろに回し、左手を差し上げて相手のあごにあてがう。桃実は流れるように相手を引き寄せ、唇を奪った。
「!」
 要は一瞬体をこわばらせたものの、桃実の柔らかく甘い感触にすぐに全身の力が抜けていく。
 唇を重ねるだけの軽いキスの後、桃実は相手から顔を離す。要は、突然の快感に翻弄されながらも、理性を取り戻そうとした。
「いったい、何を?」
 桃実は両手を後ろに組んで、少し胸を張るような仕草を見せた。
「これは、『誓い』よ。『私、鬼屋敷桃実は、剣城要のそばに常に寄り添います。健やかなる時も、病める時も』」
 要は目を見張った。言い終えた桃実は、再び彼女に顔を近づける。
「あなたは? 誓ってくれるのかしら」
 もはや要の目に見えているのは、桃実の潤んだ瞳と薄紅色に染まった頬、それに小さくすぼめられた唇だけだった。
「……もちろん!」
 要は桃実をきつく抱きしめ、熱いキスを返した。桃実も、相手の背中に腕を回す。
 桃実の胸の中には、要との出会いの場面、保健室へ連れて行かれる途中の様子が浮かんでいた。あの時は、この腕に抱えられて戸惑うばかりだったが、今は違う。自分の意志で、相手を抱き寄せている。

 ひとしきりお互いを求め合った二人は、気持ちを落ち着けた後も、相手から離れずにいた。
 二人は笑顔を浮かべて見つめ合う。ふと要が口を開く。
「やっぱり君と一緒にいるのは楽しい」
「そうね……これからもっと、楽しくなりそうだわ」
 彼女達は、お互いのぬくもりを感じながら、くつくつと忍び笑いを漏らした。
 長い日が暮れて、辺りはついに暗くなり始めた。スピカの屋上から遠くに見える桜並木では、ひらり、ひらりと花が散り初めていた。

 その後、桃実と要はそろって生徒会に入り、手管を振るい始める。生徒会の執行権限を高める一方で、本来なら一度決めた後は一人部屋に移るまで固定されている寮の部屋割りを変えさせ、自分達が相部屋になるように仕向けた。
 やがてほどなく、彼女達は、アストラエア三校を統べる象徴である『エトワール』の存在と権限を認識するに至る。

-- 了 --


あとがき 感想をお寄せください


(c) 公野櫻子・メディアワークス / いちご舎
2016.7.2 Written by ギンガム from 百合佳話 [ゆり/かわ]