インデックス まえがき あらすじ


 点々と照明が灯された回廊には、人影は見当たらなかった。この場所の景色に彩りを添えるものがあるとすれば、整然と並んだ丸い舷窓の外に見える星々の絶え間ない瞬きと、低く定常的なヘリカル・モートリスの駆動音くらいである。
 時間で言えば就寝前のひととき。北大聖廟空域を巡航するアルクス・プリーマの艦内には、どことなく穏やかな空気が流れていた。この時分ともなれば、任務に就いていない者達は各々好みの場所でくつろいでいることだろう。ある者は舞踏室でおしゃべりをし、また別の者はバーでグラスを傾け、他の者は散策がてらマージュ・プールや庭園や前部デッキにたたずんでいるのかもしれない。ともかく日頃から手入れの行き届いた社交的な場所を訪れるのであり、少なくともこの右舷回廊にわざわざ足を運ぶのでない事は確かだった。
 舷窓をたどる幅広い通路の突き当たり近くには、艦の上下の階層へつながる階段が取り付けられていた。
 手すりも踏み板も高級な素材でしつらえられた階段の向こう側には、明かりが届きづらいせいもあり、ちょっとした暗がりができあがっている。
「……」
 階段の裏側のやや奥まったスペースに、毛足の短い厚手の毛布が何枚かまとめて置いてあった。というよりは、何かを包み込んでいるように見える。
「ん……」
 しかもかすかに動いていた。やがて揺れが大きくなると、突如毛布をはねのけて人影が現れた。
「もうだめっ、息が苦しいぃ」
 毛布の山から上半身だけ表に出したその女性は、胸に手を当てて息を荒げている。肩に届くくらいのしなやかな栗色の髪が揺れている。練習生の制服を上着まできちんと着ており、腰に巻いているピンクのサッシュも毛布の間からわずかに見え隠れしていた。
 呼吸を鎮めようと必死になっている彼女のそばで、今度は別の何かが動いた。隠れていたもう一人の女性がひょっこりと顔をのぞかせる。布団の山を押さえ込むように肘をついてほおづえをし、平然とした口調で相手に語りかけた。
「だったらキサラは、鼻で息すればいいじゃない」
「えーっ。でも、マリーンちゃんはしてなかったし」
 キサラに指摘されたマリーンは、得意げな顔でうなずく。彼女も制服を着ていて、後ろで一つにまとめた黒髪の毛先をつまんでは、自分の頬の辺りをさらさらとなでている。
「うん、あたしはまだ平気だったよ」
「んもう、マリーンちゃんってばすご過ぎ」
 薄闇の中ではっきりとは見えないが、マリーンは口元をゆるめたようだった。自分も布団から体を起こして、キサラと同じ視線の高さになった。
「そうかなあ。でもシヴュラになったらもっと大変かもしれないよ」
 やっと呼吸が楽になってきたキサラは、真正面に来た相手の目を見つめて問いかける。
「もっと?」
「そう、いつ何が起きてもすぐに対応できるようにならなきゃいけないし」
 マリーンの存在を身近で感じたキサラは、たった今まで自分達がしていた事を思い出して恥ずかしくなる。と同時に、相手の表現の仕方に呆れ気味になったりもした。
「対応って……」
 マリーンはキサラの反応を意に介さず先を言う。
「そうよ。でなきゃテンプスパティウムのご加護は――」
「――やめて」
 突然、キサラが鋭い声でマリーンを遮った。
「……どうしたの」
 いつもとは違う相手の声音に、マリーンは心底驚いて尋ねた。
 キサラは、暗がりに沈むようにうつむいた。マリーンが顔を差し向けてのぞき込むと、やがて彼女は、小さな声で答える。
「今は神様の名前、聞きたくない」
「キサラ……。あんた」
 彼女は不意に顔を上げてマリーンに身を迫った。訴えかける声には、喉を振り絞るような必死さがある。
「だって私達、こんな事してるんだよ。こんな場所で、まだシヴュラでもないのに、お互いの唇を……合わせて……」
 恐怖のあまりに声が詰まってしまい、キサラは後を続けることができなくなった。震える両手で顔を覆って下を向く。
 常々考えないようにしていた事を正面から言われたマリーンも、何の言葉を返すこともできなかった。
 国の抱える巫女であるシムーン・シヴュラにとって、キスはとても重要な儀式だった。彼女達だけが乗り組むことのできる神の乗機、シムーン。その駆動の鍵となるシムーン球から光を導き出し空に祈りを捧げるために、彼女達は儀式を行う。
 すべてはシムラークルム宮国の神、テンプスパティウムをお慰めするための行為。すなわちシヴュラ達は、神への崇敬に包まれた時に初めて、万人の賞賛の前で唇を重ねるのである。決して愛欲の高ぶりなどから行われるものではない。
 キサラ達練習生は、シヴュラ達のおそばを許されるに当たり、この事を強く言い聞かされる。自分達のお世話する相手が、そしていつかは自分達もそうなるかもしれない巫女という地位が、いかに厳粛に受け止めなければならないものであるのかを知らされるのだ。
「……」
 マリーンは、キサラの小さくなっている肩と白いうなじを見下ろした。自分達のしている事に例えようのない罪深さを感じているキサラは、何もできずにただ肩を細かく震わせている。
 十七の歳にも満たない、好奇心旺盛な少女達が、毎日のように眼前で繰り広げられる『儀式』を目の当たりにして、惹きつけられないはずはなかった。しかしシヴュラではない練習生はシムーン球の前に立つことを許されず、したがって神の輝ける恩寵を受けながら行為することはできない。
 それゆえに彼女達は、気持ちが高まって抑えられなくなると、二人で連れ立ってどこへともなく出かけ、人目につかない場所で唇を重ねるのである。
 この行為の事は、練習生達の間では隠語めいて『リ・マージョンの練習』、あるいは単に『練習』と呼ばれていた。
 もっとも、自分達がそれをしているなどと口にのぼせる者は誰一人としていない。特にアルクス・プリーマ所属の練習生には高い家柄出身の子女ばかりがそろっており、自分達が『練習』におぼれればおぼれるほど、身持ちの堅い彼女達は口を固く閉ざしてしまうのである。
 マリーンは、顔を伏せているキサラに向かってゆっくりと手を差し出した。二人きりになるとよくしているように、彼女の髪の房に手を差し入れ、頬と耳たぶに触れようとする。
 だが寸前で思いとどまる。今の彼女には、キサラの髪一本にも触れることができなかった。彼女にしても、内心はキサラに近い思いを抱いていたからだ。
 先に進むことも、後戻りもできずにいると、やがてキサラが、顔を覆っていた手を下ろした。マリーンは慌てて自分の手を引っ込める。キサラはうつむいたまま、話し始めた。
「私……。私、怖いの。こんな事してるの、神様に知られたら……」
 キサラは顔を上げてマリーンを見た。胸の奥底からの不安にうちふるえる目にはいっぱいに涙を溜め、マリーンを上目遣いにひた、と見つめる。
 普段なら、相手の気弱さを突いて多少怖がらせ、反応を見て楽しむ所だった。だがキサラの言っている事は、自分にとっても不安でしかない。マリーンはそれを振り払いたくて、急いで考えを巡らせ答えを取り繕った。
「だ、大丈夫よ。他のコール付きでもやってる娘はいるって。あ、それにほら、デュクスも大目に見てるって誰かが」
 しかし彼女の言葉は、キサラを動かすことができなかったようだ。キサラは表情を変えずに、震えながら結んでいた口を再び開いた。
「……あのね。うまく言えないけど、たぶん、そういう事じゃないんだよ、マリーンちゃん」
 キサラは目を伏せた。きまりの悪そうな表情になる。
「誰かが、じゃなくて、私が怖いんだ」
 言った彼女はさらに下を向いた。
 もはや頭のつむじを見せるばかりになった相手を前にして、マリーンはやっと言葉を返す。
「……だから神様に知られたくないの?」
 キサラはもじもじしていたが、やがてこくりとうなずいた。
 瞬間、マリーンは何かに胸をわしづかみされる感覚に襲われた。そして、思わず微笑んでいる自分に気づく。
 彼女はほとんど本能的に、キサラの頭上から冷たい口調で語りかけていた。
「あんたってば、自分の都合ばっかりの、罰当たりな娘」
「そんな、そんな言い方しないで」
 顔を上げたキサラは、半分笑っているマリーンにすがりついて、必死に懇願した。
 彼女の表情を間近で見るマリーンは、震える胸の奥に歓びを禁じ得なかった。なぜそんな気持ちになるのか理由はわからない。
 ひとしきり感動した後、彼女は相手の肩に手を置いた。とびきりの優しい声で、しかも偽りのない気持ちで言う。
「いいのよ。罰だったら、あたしも一緒に受ける。ね?」
「マリーンちゃん……」
 つぶやいたキサラは、思い切りしゃくり上げた。涙を拭いた後、マリーンの肩にそっともたれた。
 マリーンは、彼女のそういう純粋さ――時には社会的、道徳的な事さえ見えなくなるほどの純粋さ――に惹かれてやまないのだった。
 相手の耳元に唇を近づけて、マリーンはささやいた。
「キサラ。……あたし達は、どこまでも、どこまでも一緒だよ。あんたとあたしは、パルなんだから」
「……うん」
 キサラの体から緊張がとれ力が抜けていくのがわかった。二人の体の柔らかい部分が静かに触れあい、密着しようとする。
「キサラ」
「あっ」
 呼び止められて、キサラは体をぴくっとさせ思わず声を出してしまった。顔を赤らめて見上げると、マリーンが目で合図をする。彼女は右手を前に掲げた。
 キサラもすっと同じ高さに左手を挙げる。
「……」
 二人は声もなく、手のひらを合わせた。とたんに、互いの体にこもった熱が伝わってくる。手のひらが触れあっただけなのに、そこから相手の脈打つ鼓動まで感じ取ることができた。
 合わせた手をわずかにずらし、彼女達は指を絡ませていく。同時に二人の唇が近づき、まぶたが閉ざされ、そして二人は再び毛布の山の中に倒れ込んだ。

 舷窓から見える星は瞬きをやめない。
 もう何度繰り返したかわからなくなった『練習』が少し落ち着き、二人寄り添って毛布にくるまり星を眺めていた時だった。キサラとマリーンは、どこか遠くで不審な物音がするのを聞いた。床に何かを打ち付けたり、引きずったりしているようである。
「……何の音?」
 キサラはマリーンの体に腕を回したまま、回廊の先をうかがった。マリーンも相手から手を離さず、首を伸ばして頭上を仰いだ。
「わからない。でも上の方みたいね」
 ちらりと上を見たキサラは、マリーンを振り返って同意を求めた。
「それって、シヴュラ達のお部屋がある階層……」
 マリーンは相手の目を見てうなずいた。
「行ってみましょう」
 自分達の体から毛布をはいで立ち上がる。船が北方を巡航していることもあって、回廊の夜気は肌寒かった。
 手袋を整えているマリーンの目に、自分の格好をしげしげと眺めているキサラの姿が入った。
「?」
 疑問のまなざしを投げると、相手は気づいてはにかみながら答えた。
「制服、着たままで良かった」
 キサラの言っている事がわかったマリーンは、人差し指を立てて得意げにうそぶく。
「だから言ったでしょ、いつ何が起きても対応できなきゃ」
 一瞬呆気にとられたキサラは、くすくすと笑い出す。
「そういう事なの?」
 彼女の笑顔を見てなぜか元気が湧いてきたマリーンは、走り出しながら答えた。
「そうよ!」
 ところがマリーンの気力は、そう長くは続かなかった。階段を上ってシムーン・シヴュラ達の居住階層にたどり着いた二人が見たのは、もう寝る時間も近いというのに、大がかりな荷物、家具や寝具の類を運ぶ侍従達の姿だった。しかも見た顔は一人もいない。他の船の人間だろうか。
 シヴュラ達の寝所がある階層には、シヴュラ候補である練習生ならともかく、他の地位の人間が立ち入ることはまれであった。特に性別を選んだ後の人々は、特段の理由か許可でもない限り、部屋に入るどころか回廊を通ることさえはばかられているのだ。なのにこの男共は平然と歩き回り、自分達の仕事をこなしている。
 マリーンは何が起きたのかと呆然としていたが、キサラに腕を触れられて我に返った。彼女の指さす方を見ると、男達は一つの部屋に、その荷物を運び込んでいるのだった。
「ネヴィリル様のお部屋……?!」
 彼女は電気に打たれたように飛び出した。キサラも後に続く。
 部屋の前まで行くと、扉が開いているのがわかった。男達は、淡々と部屋に出入りして作業を続けている。
「ネヴィリル様!」
 キサラが短く叫ぶ。男達から離れた回廊の壁際に、ネヴィリルが言葉もなくたたずんでいるのが見えた。
 ネヴィリルは、黄金の巫女、シヴュラ・アウレアと呼ぶにふさわしい実力と、また美貌を兼ね備えた女性だった。だが今の彼女は、シヴュラ制式の流麗な服を身にまとってはいるものの、表情は大変な困惑に沈んでいた。握った手を胸に当てて顔を伏せ気味にし、侍従達の立ち働く姿を黙って見守っているばかりだった。
 キサラとマリーンは彼女に駆け寄った。
「シヴュラ・アウレア、これは、いったいどうされたんですか?」
 ネヴィリルは暗い面持ちで首を振る。
「庭園から戻ってきたら、既に……」
 最近部屋に閉じこもりがちだったせいだろうか、彼女の表情には覇気がなく、不作法な振る舞いをする男達を思いとどまらせるほどの威厳を発揮しようという姿勢は見られなかった。
 かといってマリーンやキサラの手では、この状況をどうすることもできない。
 と、階段や回廊の向こうから、他の練習生達がばらばらと姿を現し始めた。皆ネヴィリルの部屋のありさまを見て驚くとともに、侍従達を遠巻きに眺めながら、不穏と不審の言葉を口々に漏らすのだった。
「どうしよう……」
 キサラもその中の一員となりかけていた。彼女の弱々しい言い方を聞いたマリーンは、身を奮い立たせ顔を上げた。
「ここにいるだけじゃ何もできないわ。他のシヴュラ達に知らせてこよう」
 彼女はキサラに目を向けて言う。
 キサラにとっては、マリーンのこういう決断力が、いつもまぶしく、頼もしく見えるのだった。もっとも、その決断がキサラ自身の振る舞いをばねに生まれているのだという事に、彼女は気づいていない。
「うん!」
 マリーンの言葉にうなずいたキサラは、ネヴィリルの方へぱっと向き直り、深く頭を下げた。
「それではごきげんよう、シヴュラ・アウレア」
 既に走り始めていたマリーンも、慌てて足を止め一緒にお辞儀をする。ネヴィリルは、気分が優れないながらも、うっすらと微笑むことで彼女達に応えていた。
 それからというもの、アーエル達コール・テンペストのメンバーを舞踏室へと呼びに行って戻ってきた二人は、次々と新しい事実を知らされることになる。
 ネヴィリルの部屋に運び込まれていたのは新しい補充要員の家具類で、今夜からすぐに部屋をともにし、さらにはパルにもなるよう司兵院から要求されている事。またその新しい補充要員は、司兵院副院主であるハルコンフがじきじきに連れてきていた事。ハルコンフは、ネヴィリルの実の父親でもある。
 荷物をすっかり運び終えた部屋で、ネヴィリルとハルコンフ、そしてコールの新しいメンバーとなったシヴュラ・マミーナは話し合いを始めた。コール・テンペストのシヴュラ達と、もう一人の補充要員であるシヴュラ・ユンを残して、練習生達は自室へ戻るように命じられた。
「どうしたの、キサラ?」
 他の練習生達と別れて階層間を結ぶ階段を下りていたマリーンは、一緒に歩くキサラが思いあぐねた表情になっているのに気づいて尋ねた。
「うん……。何か、気になって」
 マリーンは黙って相手の横顔を見つめることで、先を促した。キサラは手すりに手を添えて下りながら、ゆっくりと答え始める。
「……シヴュラ・アムリアやシヴュラ・エリーがいなくなられて、シヴュラ・アーエルやシヴュラ・リモネがおいでになって。これまでもコール・テンペストは、変わってきていたと思うの」
 キサラは、一つ一つ自分の考えをまとめるように、言葉を口にした。
「だけど今度のは、ちょっと違う気がする」
 顔を上げてマリーンを見る。
「今日いらした二人のシヴュラがどうのって言うんじゃないのよ。でも副院主様が……。副院主様は、今までネヴィリル様がお困りになるような事は決してなさらなかったのに。さっきのネヴィリル様はひどく戸惑っていらしたわ」
 マリーンは階段を下りる自分のつま先に視線を置いて、今日の事を思い出した。
「そう言えば、夕食の後ネヴィリル様のおそばに仕えていた時は、いつもより穏やかな顔をされてたわよね。あのまま元気を取り戻してくださるようになったら良かったのに」
 二人は、先程まで自分達がいた階層へ戻ってきた。
「副院主様は、コール・テンペストの事をどう思っていらっしゃるのかしら」
 回廊を歩きつつ、思い込むキサラにマリーンが口を添える。
「自分の娘がいるコール、だもんね」
 二人並んで、階段の向こう側へと回り込む。
「……少しでいいから、お話ししてみたいな、副院主様と」
 何となく聞き流そうとしていたマリーンは、思わず立ち止まってキサラを振り返った。
「はぁ?!」
 マリーンの反応に萎縮しながらも、彼女は自分の意見を述べる。
「だ、だって、大人の人達が、巫女様達に何をしてほしいのかがわからなくて……」
 額に手を添えて相手の声に耳を傾けていたマリーンは、小さく溜め息をついた。
「あんたって、時々突拍子もない事言うわよね」
「そ、そうかな?」
 おどおどしているキサラの顔を、マリーンは見た。
「まあ、いいと思うよ。そういう所も、キサラらしいんじゃないかしら」
 なぜか照れて赤面してしまっているキサラを促して、マリーンは歩き出した。
 目的の場所には、毛布やクッションが幾つも重ねられ丸く積み上げられていた。人目を忍んで二人が戯れていた巣である。
 改めて見ると、恥ずかしくなってしまう。マリーンとキサラは、そそくさとその固まりを大まかに二つに分けてたたみ、自分達の部屋に持ち帰るために抱えた。
「もう冷え切っちゃったね」
 二人が巣の中にいた時は、そこだけ別の世界のように暖かく熱かったのだが、夜気にさらされた今は、ぬくもりの痕跡もなかった。
「行こうか」
 マリーンが先に歩き出した。が、キサラが小走りして左隣についてきた。
 大きな物を抱えた二人が並ぶのは窮屈だろうに、しかしキサラはそこから離れなかった。
 マリーンは自然に荷物を体の右側に寄せ、キサラの体にすり寄った。二人の肩や二の腕が触れあうと、かすかな暖かみが伝わってくる。
 二人は無言であったが、いつの間にかにこにこ笑っていた。回廊を歩いて人目につく場所に来るまで、彼女達はそうやって互いを確かめ合っていた。

 翌日、甲板そばの階層にある練習生達の控え室は、いつもよりにぎわいを見せていた。コール・テンペスト付きの練習生が全員この部屋に集められている。補充要員を迎えてコールのシヴュラが十二人そろったこともあり、再び以前と同様の任務形態に戻るのである。
 彼女達は、久しぶりに通常任務を手伝えるとあって、やや浮き足立っているようにも見えた。あちらこちらで噂話に花が咲いている。
「最初は儀礼用の軌跡を描くそうよ。式典の空を飛ぶのかしら」
「これでまた、ネヴィリル様の祈りが見られるのね」
 グラギエフ・デュクスが来るにはまだ時間があるせいか、感動したり笑ったり、少女達のおしゃべりはやむそぶりを見せない。その対象は、新参の二人のシヴュラ、マミーナとユンにも及んでいた。
「シヴュラ・マミーナって、選抜の時に『波濤(はとう)のリ・マージョン』と『海嘯(かいしょう)のリ・マージョン』を連続で成功させたんですって」
「シヴュラ・ユンはご自分の事を『俺』っておっしゃるのよね」
 部屋の端の方に置いてある横長の卓に陣取っていたマリーンは、隣にいるキサラの腕を肘で小突いた。
「皆何だか嬉しそう」
「そうだね」
 キサラは頭を巡らせて、他の練習生達の表情を眺めた。マリーンは、そんな彼女の横顔を見る。
「あんたはどうなの。もう心配事はない?」
 言われた彼女は思わず振り向いた。
「え? ……うん」
 しかしあまり色よい返事はできないようであった。
「何よぉ?」
 マリーンはにやにや笑いながら彼女の肩に寄りかかり、わざと上半身の体重をかける。
「ちょぉっとやめて、マリーンちゃん」
 キサラは小さな悲鳴――というより嬌声や歓声に近い――を上げた。
「ちゃんと言ってよ」
 軽く押し返してくるキサラの反応を受け入れてマリーンは体を引き上げた。相手の目をまっすぐ見ていると、キサラは面白いように目をそらして恥ずかしがりながら言った。
「えっと、ネヴィリル様も、ご自分と気が合うお方とパルになれたらいいな、って。……あの、私達みたいに」
 マリーンの耳には、もう周りの喧噪は届かなくなっていた。聞こえるのはキサラの声だけである。
「もう、やだキサラったらそんな事考えてたの?」
 彼女はキサラの肩に両手を置いて、軽く揺さぶる。キサラの方も、自分の手元ばかり見ていたが、まんざらでもない笑みを浮かべていた。
「本当だよ。初めてのマージュでパルになってからずっと、この人で良かったな、って」
 もはや論旨はあってないようなものだったが、二人にとってはどうでも良い事らしかった。彼女達の会話が熱を帯び始めているのに気づく練習生も一部にはいたが、どうせいつもの事とさして取り上げることはなかった。
 そこで突然入り口の扉が開き、人が入ってきた。全員がいっせいにそちらを見たが、やって来たのはデュクスではなく、他のコール付きの練習生だった。
「ちょっとテンペスト、大変よ!」
 彼女は走ってきたために荒くなった息を鎮めようとして、机に両手をついた。
「あなた達のコール、解散だって」
 しかし部屋にいた少女達は、突然の知らせを聞いて、先程の比ではない声で騒ぎ立てる。
「変な事言わないでよ。嘘でしょ?」
「何でそんな……!」
 入ってきた少女はかろうじて片手を挙げて、自分の語る余裕を要求した。
「他のコールだからってこんなでまかせ言ってどうするのよ。知りたければ自分で確かめて」
 彼女は挙げた手の人差し指を、扉の方へ向けた。
「マージュ・プールよ」
 果たして艦首にあるマージュ・プールへなだれ込んだ彼女達が聞かされたのは、最初の知らせと一つも変わらない内容だった。
 コール・テンペストは次の寄港地にて解散。この決定はハルコンフが下したものだった。
 理由は、『調和の崩壊』とだけ宣言された。これ以上シヴュラ達はテンプスパティウムに祈りを捧げることができないとの判断であった。
 その時、マージュ・プールで何かがあったのは間違いなかった。シヴュラの内、アーエル、マミーナ、モリナス、ユン、リモネ、フロエは怪我――主にひっかき傷だ――を負っていた。
 しかし怪我の手当をしたキサラ達は、その事実を口外しないことを厳命された。また、余計な詮索をしないことも堅く言い渡されたのであった。

 たくさんの美しい花が咲き乱れる無人の庭園に、散歩をするキサラとマリーンの姿があった。
 どちらも表情は優れない。二人だけでいる時にこんな顔をすることは滅多になかったのだが、このところはいつもこんな調子だった。
 また、口を開いて出てくる言葉も、決まり切ったものになっていた。
「本当に、コール・テンペストは解散なの?」
 信じられない、というよりは、信じたくない気持ちでキサラが質問する。
 マリーンは、自分の口から事実を告げるのを嫌い、ただ首を縦に振るだけだった。
「だって、このコールは宮国で一番優秀だって。それが解散だなんておかしいよね?」
「宣言は何も訂正されてないわ。次の寄港地まで後二日もない。だから……」
 急にキサラがマリーンの腕にすがりつく。
「……私達は……どうなるの?」
 彼女はその答えを聞きたがっているわけではない。マリーンにはよくわかっていた。しかし気休めを言うことも、事実をねじ曲げることも、彼女にはできなかった。
 マリーンは、すがっているキサラの手に手を添え、まつげが触れるかというほど相手に顔を近づけて、言う。
「シヴュラを入れ替えるんじゃなく、コール自体が取りつぶされるの。あたし達も責任を取らされる」
「いやっ」
 聞きたくない事を言われるとわかったキサラはすぐさま離れようとしたが、マリーンは握った手を決して離さなかった。もう一度彼女に顔を近づけて言葉を継ぐ。
「練習生のパルもすべて解散よ。メンバーは一人一人、別の船の別のコールに配置される」
 今まで見せたこともないような力で、キサラはマリーンの手をふりほどいた。一歩下がって自分の両耳をふさぎ、ほとんどわめくように言い返した。
「嘘つき! マリーンちゃんの嘘つき! 私達はずっと一緒だって、ずっとパルだって言ったじゃない!」
 マリーンは、振り払われた手をそのまま差し伸べた状態で、うつろな表情を相手に向けた。
「そうよ。……でも今は」
 彼女の面差しにただならぬものを感じたキサラは、立ちすくんでしまった。自分の両肩を抱いて身を縮める。が、相手から目をそらすことはできなかった。
 マリーンはキサラに近づいた。両手でキサラの肩をつかむ。
 キサラの口から思わず嘆息が漏れる。
「あぁ……」
 ほとんどそれを合図に、マリーンはキサラのうなじへ腕を回し、彼女をきつく抱き寄せた。
 彼女の耳に口づけるほど近づけた唇を震わせて、マリーンは言った。
「キサラ……あたし、あんたのこと、パルだなんて思ってないの」
「えっ」
 信じたからこそ、甘えることもできたのに。その思いを本人の口から否定されたキサラは、何もかも見失ってしまった。もはや立っていることもできず、マリーンの腕の中へ倒れ込む。
 マリーンは言葉を続けていた。
「ただのパルなだけじゃイヤなの……」
 自分の頬に触れているマリーンの頬が熱を帯びていることに、キサラは気づいた。
「マ、マリーンちゃん……」
 熱はますます高まっているようだ。
 マリーンにしっかり抱き留められながら、キサラはかろうじて顔を上げた。視線を巡らすと、すぐそばにマリーンの顔がある。その表情は、ぎこちない笑みを浮かべていた。
 彼女の口が、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「あんたとは、もっといろんな事がしたいって、ずっと思ってた。ただのパルじゃできない事。いっぱい」
 腰から下に力が入らないキサラを、マリーンはそっと地面へ下ろした。二人で向かい合って座るような形になる。マリーンは相手から目をそらさずに言った。
「それをしたいの、今、ここで」
 マリーンは、おそるおそる手を伸ばし、キサラの唇に指先で触れた。
「……いい?」
 キサラは彼女の問いかけにすぐには答えなかった。やがて両手を差し出して、彼女の両肩を包み込むように触れる。
 手がかすかに震えているのがマリーンに伝わった。キサラはそれでも誠実にうなずく。
「私だって、したいって、思ってた」
「――キサラ!」
 二人はその場で強く抱きしめ合った。高鳴っていく鼓動を互いに伝え合いながら。
 人通りの絶えた庭園では、彼女達の行為を見守るのは、無数の花達ばかりであった。

 翌朝の事。二人は早起きをして――いや、眠らなかったのかもしれない――、アルクス・プリーマの頭頂部にある展望台へと足を運んでいた。
 階段を上りきり、外へ出る扉の取っ手をつかもうとしたところ、先に扉が開いた。
 吹き込んできた爽やかな朝の風をまとってそこに立っていたのは、アーエルだった。
「ごきげんよう、シヴュラ・アーエル」
 二人が挨拶をすると、彼女は快活な笑みを見せて答える。
「やぁ、おはよう。今日の空は、空気がとても澄んでいるよ」
 もうじきコール解散の憂き目を見るというのに、アーエルの顔には絶望の色は見えない。
 もっとも、キサラとマリーンにしても同じように暗さはなかった。
 アーエルは寄り添う二人を見て感心の声を上げた。
「君らは仲がいいね。あーあ、あたしもネヴィリルと仲良くしたいんだけどな」
 アーエルは後ろに手を振りながら階段を下りていった。残されたキサラとマリーンは、互いを見つめて思わず微笑んでいた。
 外は、水平線近くに帯状の雲がたなびいている以外は青く晴れていた。アーエルが言っていたように、空気は澄んでいて眼下の海面のきらめきがよく見える。
 少し肌寒くはあったが、風は穏やかで心地よかった。二人は、誰もいない展望台の中でも数段の段差をつけて高くなっている場所に立ち、手をつないで前方を眺めていた。少しだけ胸を張り腕を広げて風を受ける彼女達の姿は、まるで飛び立つ日を待つ小鳥達のようであった。
 二人はしばらく黙っていたが、やがて風に乗ってマリーンが口を開いた。
「……ここにシムーンはない」
 続いてキサラが言う。
「あなたと私は、シヴュラではない」
 朝の大気を深々と胸に吸った二人は、声を合わせてはっきりと告げた。
「私達は、パルじゃない」
 ほんの何日か前までなら、恐ろしくてとても口にできなかった言葉だった。しかし今なら、ためらわずに言うことができる。
 二人は互いを振り返り見つめ合った。キサラもマリーンも、とても照れてしまっていて、相手の目を見るのがやっとだった。
 その内に、二人の距離がだんだん縮まってくる。それぞれ相手の唇の位置を確かめながら、目を閉じる。
 彼女達の唇が重なる瞬間だった。雲間から姿を見せた太陽が、二人の間にまぶしい光を投げかけた。
 祝福されぬ口づけは、誰に見取られることもなく、ただ陽の輝きだけを受けて、二人が呼吸を保つ限り永く続いた。

-- 了 --


あとがき 感想をお寄せください


(c) 創通映像・スタジオディーン/シムーン製作委員会
2007.7.3 Written by ギンガム from 百合佳話 [ゆり/かわ]